【振り返り】日本語と英語
アメリカで、現在小学校三年生の日英バイリンガル&発達障害(ADHD混合型)児を育てるワーキングマザーのひっこです。
ADHDが確定するまで、発達障害育児の中では皆さんが経験される通り、母の私の中にもいろいろな葛藤・迷い・悩みがありました。それらを改めて振り返って記録を残します。
今回はバイリンガル育児についてです。
私は日本人で生まれ育ち、アメリカに渡ったのは夫の仕事の都合で20代後半になってからで、アメリカに住んでから英語もそこそこできるようになり、家庭では非日本語(非英語)話者である旦那との共通言語が【英語】ということで、英語が生活の一部になってはいるものの、生まれてくる子どもとは、私の母語である【日本語】で育てることに、何の迷いもありませんでした。
生まれてから2歳まで:
家でほぼ日本語オンリーで育てました。ただし、私はパートの仕事をしていたので、家に居ない時間は日本人のベビーシッターさんや夫(非日本語話者)が見てくれていたので、息子の生活言語は【日本語90%、非日本語10%】くらいの割合だったかと思います。
こういう背景もあり、息子が第一言語として最初に習得した言葉は当たり前に【日本語】でした。
2歳~5歳:
2歳2か月でデイケア(保育園)をスタートさせ、週に3回は朝から夕方までデイケアで過ごし、週に2回は私と、もしくは日本人のベビーシッターさんと過ごすというスケジュールにシフトします。
英語がほぼゼロの状態から、週に丸3日は英語のみでの生活に飛び込まされたのでした。
※厳密に言えば、夫婦の会話は英語なので、英語への【接触】はゼロではないし、生後13ヵ月ころをめどに、夫から息子への語りかけが自分の母語から英語へシフトしたので、そこから約一年、英語でのコミュニケーションの一歩は行われていた。
結果、5歳までには英語でのコミュニケーションで困ることはなくなり、日本人との日本語でのコミュニケーションも、ほぼ年齢相応の形でできるようになり、立派なバイリンガル児へと育ちました。
ただし、ボキャブラリーに限って言えば、一般のバイリンガル児同様に、日本語・英語共にモノリンガル児に加えて数が少ない、という現象が起こり、息子もその例外ではありませんでした。だから、日本語で言えないけど英語で言える言葉、英語では何というか分からないけど日本語で言える言葉、っていうのが、それぞれの場面で出現していたのがこの時期ですね。